生きる”力”(2)
ごあいさつ
西広島リハビリテーション病院
病院長
病院長
岡本 隆嗣
はじめまして!このブログは患者さん、ご家族の方、一般の方、そして職員にも、 当病院のことをもっと身近に感じていただきたいという思いで作りました。 日々の出来事の中で私が思ったことをつづっていきたいと思います。
前回、1年半も胃ろうを拒否されていた嚥下(飲み込み)障害の患者さんが、ある日を境に「胃ろうを作ってもう少し生きていたい」と言い始めたところまでお話ししました。今回はその続きです。
2015年の年明けに、「◯◯さん、胃ろうを作ることに決めたそうですよ」という知らせを聞いて、とても驚きました。というのも、口からはゼリーやムース状のものを少量しか食べることができませんでしたが、主な栄養補給を胃ろうから行えば栄養が確保でき、ご自宅での生活が十分継続できる状況でした。しかし私やかかりつけの先生、嚥下のリハビリを担当していたST(言語聴覚士)が何度も胃ろうの話を持ちかけましたが、この1年半の間、決して「そうする」とは言わなかったからです。一体何があったのかすぐに理由が思い浮かびませんでした。
それは2014年12月27日に地元の新聞の朝刊一面から全国を駆け巡った大ニュース、「黒田、カープ復帰へ」がきっかけでした。「黒田がカープのユニフォームを着てもう一度マウンドで投げる姿を見るまで生きていたい。」、本人は心の底からそう言われたそうです。最初はそのことに驚きましたが、私にはその気持が理解できました。
原爆投下から5年後の昭和25年に日本初の市民球団として誕生したカープは、原爆で焼け野原となった街の復興の象徴であり、球団と選手たちは「広島の希望」でした。この患者さんをはじめ、球団設立時から応援しているオールドファン達は、貧乏球団・弱小球団と言われ負け続けても必死に戦うそのチームと、自らの姿を重ね合わせながら熱狂的に応援してきました。運営に行き詰まった球団を助けたのも、苦しかった懐から募金をした広島市民でした。
この患者さんだけでなく、この世代の人達にとって、選手は我が子のような存在です。大リーグで活躍し、20億円のオファーを蹴ってカープに戻った黒田選手の姿は、まるで海外に留学していた愛しい家族が8年ぶりに帰ってくるかのように、きっと自分の考え方を変えてでも、もう一度自分の目で見てみたいと思える存在だったのでしょう。
原爆投下から5年後の昭和25年に日本初の市民球団として誕生したカープは、原爆で焼け野原となった街の復興の象徴であり、球団と選手たちは「広島の希望」でした。この患者さんをはじめ、球団設立時から応援しているオールドファン達は、貧乏球団・弱小球団と言われ負け続けても必死に戦うそのチームと、自らの姿を重ね合わせながら熱狂的に応援してきました。運営に行き詰まった球団を助けたのも、苦しかった懐から募金をした広島市民でした。
この患者さんだけでなく、この世代の人達にとって、選手は我が子のような存在です。大リーグで活躍し、20億円のオファーを蹴ってカープに戻った黒田選手の姿は、まるで海外に留学していた愛しい家族が8年ぶりに帰ってくるかのように、きっと自分の考え方を変えてでも、もう一度自分の目で見てみたいと思える存在だったのでしょう。
患者さんは栄養状態や身体機能が良ければ「元気」というわけではありません。患者さんの活動能力には、身体の状態だけでなく、家庭や社会での役割、その人を取り巻く家族・友人・仲間、個人の価値観や生活歴、ライフスタイルなどのいわゆる個性が大きく影響します(院長ブログ2016年7月参照)。私はこの患者さんと話をする時、飲み込みや栄養の状態、家族の負担などに目が行ってしまい、この人の「生きがい」を一緒に考えることが出来ていなかったのではないか、と反省しました。
黒田選手復帰のニュースから2年後、2016年秋にカープは25年ぶりの歓喜の優勝を成し遂げました。患者さんは黒田選手のマウンド上での勇姿を見ることは出来ましたが、残念ながら優勝まで見ることは叶いませんでした。しかし我々やご家族は患者さんの最後の大決断、すなわち生き様を見せてもらいました。